荒木慎也 「石膏デッサンの100年」

アカデミーでのデッサン指導がどのようなものであったか、その一端はシャルル・バルグのドローイングコースでご紹介した通りです。
では日本国内ににおけるデッサンの指導とはどのようなものだったのか。

こちらの書籍は主に日本国内において長らく“芸術の本質”として扱われてきた石膏デッサン指導の変遷を追うもので、東京藝術大学の前身である東京美術学校、工部美術学校からはじまり、それらを取り巻く環境として発展してきた予備校群のデッサン指導についてかなり細かく精査しまとめられた良書です。

アカデミーにおいて石膏像/石膏デッサンがどのように利用されたかについても触れられており、本書の上でも西洋と日本のデッサン指導がいかに乖離しているのかを知ることができます。またアカデミーのデッサンを主眼に国内のデッサンを眺めた際の、“なんでこうなった”感をすっきりさせてくれる一冊でした。

石膏デッサンの100年

 

《本書のもくじ》


一章 パジャント胸像とは何者なのか
二章 美の規範としての石膏像
三章 工部美術学校と東京美術学校の石膏像収集
四章 芸術の本質としてのデッサン
五章 反・石膏デッサン言説
六章 美術予備校の石膏デッサン
結び

 

本書の前半は石膏像の由来、来歴のようなものについての研究成果がまとめられています。
受験のために夢中で描いた石膏像、その原型となった彫刻をヨーロッパの美術館で見るという体験から石膏像のルーツに興味を抱くこととなった筆者の気持ちはなんとなく理解できます。
かくいう私はちょっと前に撮ったMedici動画の中でモリエールが17世紀の喜劇作家だった事を知った事から、美術室に並ぶ石膏像の元となる彫刻が作られた時代がバラバラである事をようやく実感したという具合です。
古代ローマ彫刻の理想化されたプロポーションを美の規範とするアカデミーでは当然ながらローマ時代の石膏像がモデルとして多く採用されたのですが、日本の学校における石膏像の収集基準は一体何なのか。
収集される石膏像を見ることで指導方針が見えてくるこのテーマはたいへん興味深いところではあります。

 

もともと西洋美術の教育システムを日本でも再現しようとしたはずではなかったのか、それがなぜこれほどまでにアカデミーと日本のデッサンは乖離してしまったのか。
本書の中盤以降は私のように疑問を抱く人間に対する回答めいた内容が赤裸々に綴られております。

以下は予備知識として語らずとも本書中でも触れられている事なのですが、日本における西洋絵画の指導は1876年(明治9年)にアントニオ・フォンタネージを講師として招き入れた工部美術学校からはじまりました。彼による指導はアカデミックなデッサン指導であり伝統的な油彩画技法であったと残された資料や彼に学んだ画家の技法などから推察されます。
※バルグのデッサン手本を持ち込み教材としていたことはコチラでも触れたとおりです
しかしわずか2年後にフォンタネージは帰国。工部美術学校自体も1883年には解体され、日本の公的機関における西洋美術教育は1896年の東京美術学校開設を待つ事となります。そこでの絵画指導は西洋の伝統を踏襲するものではなく、印象派に影響を受けて留学から帰国した黒田清輝による独自の指導方針によるものとなりました。

さて本書ではデッサン、中でも石膏デッサンに注目してこれ以降の歴史が語られてゆくのですが、筆者は下記のように簡潔に結論づけています。

結論から言えば、日本におけるデッサン教育の展開は、一貫して西洋の美術アカデミズムという出自を忘却し、代わりに「絵画の本質としてのデッサン」という、より抽象的な価値観を、新たな原則として置き換える作業だった。

「石膏デッサンの100年」p.125

本書によると黒田はアカデミーにおいて基礎訓練法として確立していた模写からはじまるデッサン指導を、誰が描いても同じに見える即席の上達法であり創造性の芽を摘むと考え(これはまあ現在もデッサン批判の理屈として語る人もいるのですが)、感覚に重きを置いた表現としてのデッサンを指導する事で、結果的に基礎訓練をスッポ抜かしてしまうという、アカデミーとは完全に隔たりのある指導方針をとりました。
“表現”を指導しておきながら「デッサンはすべての“基本”」だというような矛盾した論調はデッサンの是非を問う論争を巻き起こし、これは現在に至るまで度々議論される事になります。

石膏デッサンを入試課題とする美術大学が増えるにつれ、やがてデッサン指導の場は乱立する予備校に主戦場を移すこととなりますが、そこでも基礎訓練法としてのデッサンが顧みられる事は無く「大学に入るための石膏デッサン」としてより表現的で目にとまる描法や構成が研究され独自発展を遂げます。
いわゆる「予備校デッサン」と呼ばれるやつです。
デッサンをめぐる美術大学と予備校の掛け合いを時系列で見ると大変おもしろいのですが、つきあわされた学生諸兄はジクジたる思いがあるかも知れません。

 

余談ですが私が通った阿佐ヶ谷美術専門学校の前身である予備校時代の阿佐ヶ谷洋画研究所についても当時はたいそうな人気ぶりであった事が触れられています。ただ、のちにグザヴィエ・ド・ラングレ氏の元で学んだ飯田達夫先生らによりアカデミックな手法を取り入れたデッサン指導がなされる事になるところまでは追ってないあたりが非常に惜しい点です。

度重なる改編を経た阿佐美において、デッサン指導が現在どうなっているのかは存じ上げませんのであしからず。

 

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