1860年代後半、ジャン・レオン・ジェローム協力のもと、シャルル・バルグが制作したリトグラフによるデッサン手本集「Cours de dessin」。この美術教育機関向けに販売されたリトグラフ集を書籍の形で一冊にまとめたのがこちらの本です。
フランス芸術アカデミーの規範に基づいたいわゆる「アカデミック」なデッサン指導はまず手本を模写するところから始まり、段階的に現物の石膏像のデッサン、人物モデルのデッサンへと進められました。これはその最も初期段階である「お手本の模写」という訓練法のために作られた手本集の資料本となります。
帯にはデカデカと完全復刻版とありますが、残念ながら本来60x46cmのリトグラフであったものが書籍サイズに縮小されており、そのままの状態で実践的に使える手本としての性質は失われています。
しかしながら当時販売されたプレートがすべて掲載された豪華な内容である事は間違いないので「完全収録版」とするのが適切だろうとやや厳しめの意見を述べつつ、真の完全復刻を心から望みます。
こちらのプレートは本書の帯にもあるようにピカソが模写を残しています。
<参照>
海外では少なくともフランス語版、英語版が以前から出版されており、SNSなどにはこの書籍から拡大コピーをとって実際に模写している様子の写真をアップロードする画学生が多く登場しました。現在でもその様子はわりと頻繁に目にする事ができます。
そして2017年になんと和訳版が出版され、日本の書店にこの本が並ぶこととなったのは私にとって衝撃的なできごとでした。
シャルル・バルグのCours de dessinは、国立美術学校=エコール・デ・ボザールの正式教材でこそ無かった様ですが、ボザールの指導内容に沿う形をとりながらアカデミックな絵画を描くための基礎技能を身につける事はもちろん、デザイン学校などにおいても美の規範を習得させる教材として活用される目的を前提につくられました。
書き添えられている解説文は当時の指導者によるものではありませんが、数多くのデッサン手本を見ながらアカデミーにおけるデッサン指導の意義や概念を日本語で読めるなどという事は今までなかった事なので、日本のデッサン指導もようやく本来の姿を顧みる機会に恵まれた…と、かなり興奮したものです。
しかしながら現実には私の興奮をよそに、本場西洋絵画の潮流など知ったことではない感のある日本の洋画界においてはどこふく風といった雰囲気に憂いを感じますが、徐々にでも認知されてゆく事を期待します。
ベルヴェデーレのトルソーもピカソの模写が残ってます。
<参照>
もともとのデッサン手本集が発行されるに至った経緯は本書に詳しく解説されており、1865年に開かれたフランス全土の学生たちのデッサンや彫刻などを集めた大展覧会において、そのレベルの低さを目の当たりにした関係者らにより「質の高い手本の必要性」が唱えられた事に始まるようです。そのご優秀な画家の手によるデッサン手本が数多く出版される事となりましたが、その中でも“少なくとも30年間は売れ続けた”というバルグのCours de dessinは重要な位置を占めたものだったようです。
Cours de dessinはリトグラフ(石版画)、つまり印刷物なのですが、この印刷物の手本を模写する事が学習の第一歩となります。手本集は模写を通して段階的に技術と感覚を身につけるコースを前提として構成されており、本書に収録されるリトグラフも出版当時の内容と同じく3部構成となっています。
第一部は石膏デッサンの模写。
70点におよぶプレートが掲載されており、前半は手足など比較的やさしいものから始まり、徐々に複雑なものへと進んでゆきます。
多くのプレートには複数の図が描かれ、全体を単純に捉えたのち徐々に細部を描き込んでゆく段階が示されています。
全体から細部へというプロセスに沿えば輪郭から捉えるのは必然です。
輪郭線を軽視した陰影表現によるデッサンでは必然的に真っ黒な画面になってしまうのに対し、ここでは簡潔かつ的確な輪郭線により対象物の形状をしっかりと捉えながら陰影の取捨選択や強調を可能にし、石膏像の白さ=的確なヴァルールを表現しています。
多くの予備校で教える“量感”やダイナミズムに特化した、人目につく「受かるためのデッサン」とは目的意識からして対象的です。
多くのプレートに描かれる石膏像は古代ローマの彫刻から型どったもので、古代彫刻に表れる理想化された形体を美の規範とし、その感覚を身につける事で現実のモデルを理想化する能力を鍛えるという、石膏像の選択にも明確な目的が存在します。
第二部は巨匠作品の模写。
ホルバイン(子)の作品を多く含む67点の巨匠のデッサンを模写したリトグラフが収録されます。第一部の石膏デッサンと比較してより複雑な線と微妙な陰影を持ち難易度が上がります。作者の技術や美的感覚を習得する訓練として模写するための手本となっていますが、本書ではいくつかのページに大きく印刷されたもの以外、さらに縮小された図版が参考程度に掲載されるに留まります。
第三部は男性ヌードのクロッキー。
英語では「ドローイング」の語に統一されるようですが、比較的短時間で形を捉える「クロッキー」に該当するものの手本です。
実際のモデルを描く前の訓練として、模写を通して簡潔で的確な線やアクセントの付け方、遠近法による歪みを補正して描く事などを学び身につける手本となります。
この手本の描かれ方は私の在学時ににおける阿佐ヶ谷美術専門学校のクロッキー指導そのものです。
本書終盤には作家としてのバルグの紹介が多くのリトグラフ作品・油彩画とともに紹介され、Cours de dessinの制作を経て一皮むけたとの評価がなされています。
ジェロームとの交流も画風や技術に相当な影響を与えているでしょう。
また付録として、現物の石膏像をデッサンする際に使える実践的な描画法「サイトサイズ法」についての解説も紹介されています。
本邦の教育現場では見ることのない手法を日本語で読めることには目からうろこが落ちる方も多いのではないでしょうか。
サイトサイズ法についてはhttps://www.sightsize.com/に解説があるので読んでみるのも良いでしょう。(詳しい指導は有料になります)
今の所サイトサイズ法に言及している日本語サイトはアトリエ・ラポルトのブログくらいなものです。下記参照下さい。
おそらく明治9年に日本へ渡り絵画指導を行ったフォンタネージもバルグのCours de dessinを持ち込んでいたのではないかと思われます。
1977年に開催された「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術」展の図録を見ますと作者不明(工部美術学校生徒)として59.5×46.0cmの腕のデッサンが展示されていますが、これはバルグの第一部20番目のプレートです。
ただ、とにかく線が的確すぎることに加え、東京藝術大学大学美術館収蔵データベースにも現在この作品は載っていない事から、リトグラフの原本を生徒作と誤って展示していたのではなかったかと疑っています。
そんなフシアナな事案が発生するのかと思いはするのですが。
バルグのリトグラフ | 工部美術学校生徒作 |
撮影の具合か、生徒作とされるものは全体的に縦方向に縮んでいますけど、とにかく的確すぎる。
他にも東京藝術大学大学美術館収蔵データベースにはバルグの模写が数点登録されています。いずれも作者名に塚本靖とありますが、建築家の塚本靖と同一人物かどうかは判りません(没年表記が1年異なるし在学履歴があるのかも知りません)。これらが留学先で描かれたものなのか、国内で描かれたものなのか不明ですが、先述の作者不明品と並んで日本国内にバルグの手本集が存在する、あるいはした可能性を匂わせる資料のひとつです。
Cours de dessin | ||
東京藝術大学大学美術館収蔵データベース(リンク) | ||
プレートI-39 | プレートI-61 | プレートI-65 |
本書の残念な点としては冒頭にも述べた通り、サイズが縮小されているため実践的な教材としての価値が半減してしまっている事(本当の教材として完全復刻してほしい!)。また以下は元のCours de dessinも同様なのですが制作に携わったとされるジェローム本人の手による作品が含まれていない事、ジェロームやバルグによる指導に関する解説文が無いことなどが挙げられます。
※本書の文章は幾名かの画家から描画指導と助言を得た美術史家が書いたものとなっています。
この和訳版を手にした古吉弘画伯はジェロームの文章などは無いことに気づき早々に手放してしまわれたのですが、その本が実はAmazonを通してアトリエ・ラポルトの佐藤先生の手に渡っていたという事は私にとって面白い逸話でもあります。
日本語化される以前にかつてアトリエ・ラポルトのブログで英語版・フランス語版の紹介がされています。そちらも参照下さい。